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虚呂路

虚呂路

                          やたらと自己分析に耽っていた頃。 今にして思えば、あれは『分析』と同時に『構築』でもあり、きっとあれこそが己の酷く短い思春期だったのだと気付いた今日この頃。
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 ここ最近、目に付きやすいように店頭に平積みされているラノベを見ると、
 「萌え」に走っているような気がしてならない。
 といっても、私の行動範囲内の書店に限ってしか言うことはできないが、
 多くがカバーイラストに美少女を据え置き、一部にはタイトルまで媚びている様に
 感じるものもある。
 読んでもいないのに、内容まで憶測で決め付けるわけにはいかないだろう。
 しかし、恐らく萌えを強く意識した話のような気がする。
 実際読んでみて、そのように感じたものも幾らかある。
 以前、とある場所で実例を挙げて痛い目を見たので、タイトルは言えないが。
 まぁ、推測通りでも悪い風潮とは言えないけれど、正直歓迎したくない。
 一応言っておくと、美少女が登場する事に異議を申している訳ではないのだ。
 物語の多くは、ボーイ・ミーツ・ガールが基本だという。
 男の子と女の子である。青春である。
 いまだ若き自分の人生には似つかわしくない単語である。
 んな事、心底どうでもいいが。女の子が出てきて当たり前なのだ。
 いや、むしろ出さないと物語の――描ける世界の幅が狭くなる。
 そして、キャラを格好良くするか、格好悪くするかで問われたら、
 何か意図するところがあるのならともかく、どうせなら
 格好良い男の子、可愛い女の子を書きたいと大抵思うのではないだろうか。
 読者も、格好良いやつらは自然と応援したくなるものだろうし。
 つか、人間は中身が大事だということも多いが、
 初対面では外見で判断するしかないのだ。外見も大切。話の筋に関係ないけど。
 しかしながら、結局キャラの外見だとかは物語のスパイスだと思うのである。
 あくまで物語を飾るものであって、メインではないのだ。
 でも、今は「萌え」がメインで「物語」がそれを際立たせるスパイスという
 構図が増えてきたような気がする。だとしたら、ちょっと哀しい。
 上手く言葉にできないが、そんなことを何気なく思ったのである。
 ……自分で読んでも要領を得難い。
 一度考え終わったことを、その時と違わずに同じようになぞって
 思い出しつつ書くのは難しいな。
 

 と、ここまで書いたはいいのだが。
 少女が前面に押し出されている話が多いことに関して、
 哲学さんが最近ブログで書かれていらっしゃった。
 私の方とは論点が違うような気がするけれど、
 毎度の事ながら勉強になります。
 そして、考えの深さに圧倒されて、自己嫌悪に陥ります。
 難解なことを多く書かれていますが、読んでもらいたいです。
 →哲学のバトル日記
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 私が住んでいるのは「田舎」と大抵の人が認識する程度にのどかな場所で、
 夏にはセミやカエルが五月蝿いくらいに絶え間なく鳴き明かし、
 呪詛でも唱えてるのかよと突っ込みを入れたくなることもしばしば。
 そういえば、夕暮れ時には蝙蝠も飛び回っていますね。
 今年はウグイスが近所に居を構えているようで、
 つがいでも探していたらしく、朝にはやたらと歌声が耳に入りました。
 でも、ウグイスの声といえどあんなに鳴かれては風流も何も
 感じられないものですねぇ。
 都市部での車両の駆動音だとか、人工的な雑音よりは好ましいですが。
 ひょっとすると、単に自分は静寂が好きなだけなのかもしれません。

 少々以前より忙しくなりましたが、今もどうにか棒術を続けています。
 が、スランプですかね。調子が悪いです。
 もしかすると、元から大事な部分を忘れていたか、
 理解できてなかったのかもしれません。
 「型」として自分ひとりで捌き方を再現するのは、出来ているようです。
 しかしながら、相手と向き合ってやるときには事情が違ってきます。
 相手の力を利用して素早く棒を返したり、
 力を受け止めて拮抗に持ち込み、そこから逃がして体を崩させたり、
 そういう技術はどれも一人では練習できないものです。難しいです。
 棒の引き方、方向ひとつで相当効果の具合が変わります。
 でも、それが一番大事と言うか、むしろ本質です。
 形だけ立派に見えても、演舞じゃない以上意味がありません。
 つまるところ、私は棒術も一人よがりになってしまっているのですね。
 こんなんじゃ、自己満足で自画自賛に耽る三流芸術家並みにたちが悪い。
 間抜けで滑稽で愚かしい……って、いかん。卑下していてもしょうがない。
 初心ってやつを忘れないようにしないと、腕は錆びる一方だし。
 心にオイルが足りないけど、どうにか磨きなおしていきたいですね。

 お久しぶりですっ!
 ……この台詞をここに打ち込んだのは、これで何回目でしょう。
 うーむ、ダメだなぁ……。書くことはあるのに、文章として組み立て難い。
 行き帰りの暇な電車の中とか、考え事をする時間はある。
 けど、以前に比べて頭が回らない。妙だねぇ。
 ま、一ヶ月間それなりに色々あったので、時間を見つけて遡って
 書いていこうかと思います。時間があったらね(汗)。

 学校にも通学にも、随分慣れてきたように感じます。
 世間では早々にドロップアウトする方が現れる時期でしたが、
 五月病の兆候は自覚も無いし、外見にも表れていないようです。
 補講に指名されたらきっと凹んでたと思いますけどね。
 理系科目の抜き打ち試験が実施されて、その結果から芳しくない者は
 補講に出席しろと言い渡されるイベントがあったのです。
 恐ろしいことにどの科目も、学科の生徒の約半数にチェックマークが付いていて、
 化学はもうダメだ! と思っていた私は蒼白になりましたが、
 どこかの暇な神霊の類が暇つぶしに奇跡でも起こしたのでしょう。
 何事も無く全てパス。……ここの偏差値は思っていたより低いのかな。
 それでも倫理学とゼミでレポート及び発表が予定されているので、
 今月はドタバタジタバタしそうです。

 木曜日の雨は凄かった。道路自体が水溜りのようになって、
 新品の靴は見事に芯まで水分を吸収してしまったし。
 バスを待っている時に、すぐ傍にある店先のひさしで雨宿りさせて
 もらっていたら、何故か店主のおじさんには『バス停はここじゃない』という
 趣旨が書かれた張り紙を指差しつつ厳つい顔で注意されるし、
 湿っぽい空気の中、溜息の尽きない日でした。
 おじさんに関しては、普段から高校生達がたむろって迷惑しているのだろうし、
 傘を持ってはいたから、しょうがないかなと思う部分もある。
 とりあえず、これからは大人しくバス停で待つとしましょう。

 前にトゲさんのブログで子供のしつけに関して書いてあった件について。
 先にリンク先の記事を読んでおくことをお薦めします。
 その記事にコメントしようかな、と思ったけれど書き始めたら
 他のコメンテーターの方々と方向性が外れたので止めたのですよね。
 常識的に道徳的に云々と正しさを説くのはどうにも私向きでない。
 何しろ道徳や社会も一つの目線、見方、価値観だというところから始めますし。
 そんなこと先に言っちゃあ、一つの正しさが絶対的なものじゃないと言うことを、
 単にナメている。甘えている。言い訳だとか逃げているんだとか屁理屈だとか
 評されそうですし。親には常日頃から言われてますしね。

 そんな私が受けてきたしつけがどんなだったかと言うと、
 両親は「口でいってもわからん奴は体で教える」という
 バイオレンスな信念があるようで、私はよく冬の夜に下着で放り出されたり、
 引っ叩かれて倒れた上に蹴っ飛ばされたり、首絞められたりもしたものです。
 さらにその後、再度繰り返される言葉攻めは、
 意識が朦朧と昏倒寸前になるくらい苦しく激しいものでした。
 それで私が本質的に道徳溢れる人間に育ったかと言えばご覧の通りですが、
 少なくとも社会のルールや遵守しなければならないことを、
 その理屈や思想が分からなくともこの身に教え込まれました。
 程度の差はあれ、トゲさん式アイアンクローと似たようなものかもしれません。
 当時はともかく今は、自分の身を守るためという後ろ向きなものでも、
 ろくに考えるという行為をしない内から、ルールを守らなければならない
 理由を得られたのは良かったのではないかと思います。
 半ば本能に刻まれたようなものですし、
 おかげでギリギリまともに社会交流が出来ているのかもしれません。
 ただ最近、私のためを思っている面もあるんだろうけど、
 自分の考えに疑問を持たずに従わせようとするところを感じて、
 母親とは衝突しがちですがね。そろそろ自分ひとりで学ばせて欲しい。
 ある意味過保護で、ある意味スパルタなのだよなぁ……。
 どちらにしても干渉が激しい。

 それはともかく、まあ私の親は少々厳しすぎたとしても、
 やはり口で言っても分からない。受け入れない。
 一過性の形だけの反省しかしない。
 そもそも実のところ聞いてすらいないことはままあると思います。
 というか、私がそうだったが故に鉄拳制裁の日々だったのさ(涙)。

 あと「ばあさん菓子買ってきてよ」という言葉にはちょっと驚いた。
 もらえることが当たり前だと思っているのでしょうかね。
 自分にはその権利があると思っているのかな。
 単に柳の下のドジョウ的感覚で主張しているのだろうか。
 おばあさんは純粋な『好意・親切心』でお菓子をあげているのだろう。
 「気を利かせる」という言葉についても同じことが言えると思うのだが、
 それらは相手のことを思いやることで生まれる『自発的』な行動であって、
 決して強制されるものでは無いと思うのですよ。
 だから『気を利かせろよ』とか言われると、私は何様だと噛み付くのですがね。
 さらに菓子を貰っても礼をしないともいう。
 相手からの一方的な好意であっても、それを受け入れる以上は
 恩恵に預かることになる。私ならば礼は返しますけどね。
 断るにしたって、その思いを無下にはしないかな。
 ここは社会性を抜いてしまうと、人によって結構異なる部分かもなぁ……。
 『好意』の基準も難しいしねぇ。
 断ってもなお迫るのなら、それは『押し付け』や『過ぎた干渉』になるし。
 ちと難しいな。ここら辺の判断ってのは。も少し考えてみることにしますよ。

 公開予約なるものを用いてみましたが、どうでしょう?
 きっちり投稿されているかな?
 書くことが溜まっていたら、土曜日に一気に書いて順次アップさせようかと
 考えていたりします。

 セミナー中こそ口を開く必要も無いくらいに交流がありませんでしたが、
 いざ大学生活が始まってみると、話しかけられることも多い。
 まあ必要・確認事項の類が殆どで、交流とは呼べないかもしれないけどね。
 でも現在、三人ほど積極的に関わってくる人物がいる。
 一人はやたらと断言口調を多用するが、実際のところ人それぞれの考え方を
 尊重しているらしい。忌憚の無い物言いは好印象。
 二人目は哲学や論文、トリビア的な知識を好むようで、
 私の考えにも積極的に耳を傾ける。ポーズではないと見える。
 聞き手としてはかなり優秀だと思われるが、彼自身が論議する事はほぼ無い。
 彼もまた各々別の考えを持っていて良いと言う。
 三人目はあまり表情の変化や発現が見られない。
 自己主張も表現も、僅かに零れる言及や見た限りから推測するに弱そうだ。

 同調どころか、どうにも己を論理によって律することが出来ず、
 その上反射的に感覚的に断言口調を散々用いてしまったファーストコンタクト。
 二重に暴走した私に対して、それでも関わってくる理由は、よく分からない。
 失敗した時点で私はすっかり遠慮容赦無く考えを出すことを決めていたから、
 もはや表面的な予定調和型お付き合いどころの話ではない。
 無論大切な存在に対する感情などは生まれちゃいない。早々生まれはしない。
 利益を求めての交流でもない。意見の交換も彼らとは出来そうにない。
 何故なら言葉の端々から察するに、人それぞれと言ってはいるが、
 むしろ彼ら個人としての考えを感じることがないからだ。
 もしかすると、あまり干渉されないための方便なのかもしれない。
 もしくは感覚的にそう言っているのであって、私のように論理詰めで
 そう達したわけではないのだろう。
 ならばその他のものに対する答えも感覚的に思ったものを言ったので、
 論理性が今一つ伴っておらず、それらが考えというより『何となく思ったもの』
 だというように私が感じ、実質考えていないのだという考えに到らせたのかも。
 
 以上から私にとって彼らはどちらの友人でもなく、ビジネスライクでもない。
 「知っているだけ」の存在たる知人程度でもない。
 あえて言うなら、言葉は悪く感じる方が多かろうが「観察対象」が適当と思う。
 四年後に、この位置から彼らがどう動いているか? 動いていないか?
 うん。少し楽しくなってきたかもしれない。
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