虚呂路
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はてさて、とうとう大学通いが始まります。
今日は事前の説明会。明日が入学式。
そして明後日からは泊りがけでセミナーですよ。
なんと富士急ハイランドにも行っちゃうらしいですよ。
親睦を深めるためだそうですが、自分はベンチで一人ソフトクリームでも
堪能することにしましょう。
それにしても、電車による片道二時間の行程はキツイ。
慣れるまで大変そうです。
今年に入ってから、読書欲が驚くほどなりを潜めておりましたが、
帰りに駅構内のパルコの書店をぶらついていたら、また湧き上がってきました。
果たして気晴らしの必要が無いゆえか? それとも読書自体に飽きたのか?
はたまた読んでいた本が単に全てつまらなかっただけだったのか?
自分で書くことも趣味として見出し、依存度や優先順位が下がったのだろうか。
理由はよく分かりません。一つだけじゃないかも。まったく違うのかも。
でも、今は読みたいと思える。嬉しいけど、しかしこれからどうなるのか。
高校生の時と同じくらいの勢いに戻っちゃったら、
多分図書館に行って大量に借りてきちゃいそうだしなー……。
親は説得して、量を減らすことで同意し、封印は免れたものの、
自制できるのかなー……。
そして実際、大学始まってから読める時間がどの位あるかなー……。
大体、やたらめったら手当たり次第に読むのは止めようと
思ったばかりだしなー……。
嬉しいけど、困ったもんだなぁ。
エイプリルフール。
今年も素敵な嘘があちらこちらで乱れ咲いたようですね。
一年のうち、この日が最もネットサーフィンのしがいがあると思うのですが、
残念ながら私がパソコンに触れられたのは、一日が終わる寸前の深夜でした。
辺境紳士さんのところのアンケートに乗り遅れなかったのが、救いです。
それにしても360以上も集まったのか~(笑)。
自分は二つ送りましたが、一つはボツ。
ラジオを聴いた人ならわかる「わんわんっ!な自画像」は
いいアイディアだと思ったのだけど惜しかったなぁー(笑)。
ボツ集に残しすらしなかった勇者王はどんなだったのか、
気になって仕方がありませんよ。
それにしても、あの方はやはり粋な人ですね。
嘘をつくときには若干の真実を織り交ぜること。
描くのは本当。ただし、画集として刊行ということが嘘なのかな。
これからがひと際楽しみですよ。
一ヶ月間小学生達に古武術指導をしてきましたが、ようやく終了。
回を重ねるごとに体術に対する自信を失っていく。
でもお陰で、どれだけ鈍っているか自覚も出来たし、いい勉強になりましたね。
最後の練習はひたすら私が投げては起き上がらせてを繰り返し……。
要は、受身を取らせる練習です。
一人十回づつ投げるのだけれど、ふとこちらが投げるのを途中で止めると、
力を加えていないのに、彼らは自分から転がっていってしまう。
まあ、気持ちはわかる。腕を捻られるのは痛いよな。
自分から倒れた方が楽だよな。
でも練習にはならないし、今自分から転がったな?と問い詰めて、
首振って否定している間に不意を突いて倒したりして、
すると見事に頭をぶつける。……修練の成果がまったく見えん。
まあ彼らの気分としては、所詮遊びのようなものなのだろうし、
こっちも楽しませるように指導しなきゃいかんのかもしれなかったな。
その後の棒術の練習の時に、何だか見覚えがある人がいると思っていたら、
むこうは何故かよく覚えていたらしい。
私が小学校五年でまだ子供クラスにいた頃、大人クラスで訓練していた人だ。
クラス全員の名前と顔を覚えるのに半年かかる私にしては、
ぼんやりでもよく覚えていたものである。
あの頃は帯の色を見て、ずっと先輩だと思っていたのだけれど、
ちょうどその時入門したばかりだったそうな。
大人クラスから始めると、年齢を考慮してずっと上の級から始まるらしい。
よって、私が十三年目に入るのに対し、彼はまだ八年目。
なんと私の方が先輩だったのだ。また、彼の年齢は私の二倍だという。
遥か年上で、ずっと先輩だと思っていたのに本当は後輩だった人。
そんな相手に指導するのは、なんともいえない、不思議な気分だった。
大学が始まって、忙しくなったら、
果たして今までのように通えるのだろうか。
続けていきたいな。最初の頃は私も遊びの気分だったし、
親に言われたのが始まりだ。
でも、今は自分の意思で、好きでやっている。
やっぱり、続けていきたいと思う。
まずいな、と思う。ネタがなくなって連続更新を止めて以来、
しばらく思考停止に陥って、ろくに物事を考えられない状況にありましたが、
それは復活。
思い返せば、口から出る言葉も、自分の信念から外れてばかりで、気分が悪い。
根拠の無い断定と、自分の意見が正しいという独善的な要素が含まれている。
頭の中で修正しても、行動が伴わない感じでもありました。
まったくもって自分自身が嫌になる日々だった……。
ただ、また頭が前向きに色々回るようになって、何故突発的に
眠りと覚醒の狭間をたゆたう様な呆然とした頭になってしまうのかを
考えていると、色々な要素が頭に浮かんで絡むものの、整理しきれない。
さらに、前に物事を楽しめないのは、辛くてつまらないモノが無いからと
思ったけれど、それもよくよく考えてみれば、一種のメリハリの問題だ。
メリハリをつけるという観点から見れば、まだまだ要素は挙げられる。
その上、自分はこんな感じの人間だと、ある程度の像を結んでいたものの、
普段のそれとは別種の雰囲気を持っている時が随分あることに気付く。
古武術をやっている間の自分はむしろ友好的で、積極的に指導まで買って出る。
足し算引き算で人との関係を考える基本姿勢とこの違いは何だ。
そんな道場においてのみ聖人君子を気取って演じ、社会性を取り繕う必要は
見当たらない。というか、考える間もなく自然とそんなことをやっている。
自分という人間について考えるけれども、どうにもわからないな。
以前にも増して分からなくなってしまった。
自分のことは自分が一番よく分かっている、という言葉は少なくとも私には
当てはまらないらしい。
別に、どんな自分が正しいと決めたいわけじゃあない。
そもそも、人間性も概念的なものだ。
私を複数の人間が見た場合、それぞれに違う印象の私がある。
そのどれもが私なのだ。全てを包括した上で私なのだ。
そして、私自身が認識している私という存在にしても、
私自身の価値観などで構成された主観によって捉えられた人物像に過ぎない。
最も多くの「私」を知っているという点では一番知ってはいるかもしれないが、
それがどういうことかを判断するのは、
所詮不安定で不完全で歪な一人の人間としての主観だ。
いや、ちょっと落ち着こう。自分でも訳が分からなくなってきた。
なんか論理のすり替えが起こってないか……?
一体論点は何処だったかな……読み返しても分からん(笑)。
ただ、そうだな。メリハリをつけるという点に関して。
私はどうにも昔から、興味の向いたことに対しては、猪突猛進の如く
何処までものめり込む性質があるようだ。
その代わり、興味の向かないことや嫌なことに対しては、
行う必要性があるものでも、逃げの体制でギリギリのところまで後ずさり、
崖っぷちでどうにか受け流す。
そんな風だから、メリハリのつけ方ってのが、いま一つよく分からない。
……ま、色々悩んで考察してみることにしますか。
前に進んでいるのか、戻ってしまっているのか、
はたまた堂々巡りをしているような気もしますが。
少なくとも繰り返し反復するのは大事だろう。これは古武術と同じだな。
ネット上ではよく見かけます。
しかし、そもそも言葉は概念的なものなので、形がありませんし。
形がなければ、これが正しいと一概に答えを定めるのも難しい。
故に、人それぞれが正しいと思う意味も、少しずつズレが生じてしまいます。
そう。「机」と聞いて、思い浮かべる形が微妙に異なるのと同じような感じ。
だから私の場合、あまり他人にこれが正しい!と言わないようにしています。
たまに、こんな捉え方はどうだろうか、と持ちかけることはありますけどね。
考え方や思想と同じように、各々違いがあっても仕方が無いと思いますから。
その隙間が善であるか悪であるか決めるのも、
それぞれの価値観等に基づいて独自に判断されるものですし。
元々、言葉は他人と関わる事を前提に生み出されたものなのでしょう?
だから、要は単純に伝わりさえすれば良いのだと思いますよ。
会話が成り立つのなら、過去から伝わる意味が捻じ曲がっても気にしません。
伝統的な意味が、正しいわけでも間違っているわけでもない。
変化するモノである以上、唯一の答えは無い。
統一なんて、出来るようなもんじゃないのです。
辞書などの意味合いは、絶対的な答えではなく、
最低限会話を行うための指針といったところが妥当ではないかな、
と私は思うのです。
……はい。私はこんな風に「人それぞれだろ」とか抜かしたり、
わけ分からん奴だと思わせたりして、他人を遠ざけてきたのですね……。
普段窓をあまり開けないものですから、
たまに部屋を掃除すると埃が舞い上がってエライことになります。
何しろ猫を二匹も飼っているということもありますし、埃も出やすい。
そんな家に住む私は、動物と花粉及び埃アレルギーの罹患者です(笑)。
そりゃあもう、鼻水がズビズビズバーッ!! とノンストップですよ。
夜になって寝ようとしても、全然止まらなくて大変でした。
目の痒みや湿疹の症状は出にくいけれど、鼻はとても敏感のようです。
魚の生臭さとか殆ど気にしないというか、感じないのに敏感ってのも可笑しいな。
ちなみに、動物アレルギーにしたのは今の飼い猫だったりします。
だが愛してるぜ(笑)。また一緒にベッドで眠りたいな。
……今にして思えば、司書になるのを諦めたのは、体質的にも良かったのかも。
書庫の整理とか、くしゃみで死にそうな思いを味わうことになりそうだしね。
我が家では朝日新聞を購読していて、
毎週末の別刷り紙。「be」を家族揃って結構楽しみにしています。
昨日の「be」に載っていた、イチハラヒロコさんの作品に関しての記事は
なかなか興味深かったですよ。
現代美術アーティストにカテゴライズされる方で、
その作品は絵画の部類と言って良いのか。……違うような気がする(笑)。
現代のアーティストには、既存のカテゴリに収まることを良しとしない
風潮があるのでしょうか? 面白いから私は歓迎ですけど。
be本誌と同じ例を持ち出すことになりますが、よくある絵画の構図に、
「机に置かれた皿に載っているリンゴ」というものがありますよね。
額縁の中でこの情報を、見るものに対して最も正確に伝えるとしたら
どうすればいいでしょう?
正解は、単に「机。皿。リンゴ。」と文字で書いてしまえば良いのです。
しかもゴシック体の印字で。
これなら絵の上手さや、文字の美しさを問われることもありません。
さらに、視覚的に訴えるのではなく、言葉という概念的なものを用いることに
よって、個人個人のイデア的なギャップも飛び超えてしまっているのです。
つまり、見る人それぞれに思い浮かべるべき情景を委ねることによって、
情報が間違って伝わることが無いということ。……まさに完璧だ(笑)。
他にはこんな感じの作品があるようですよ。
彼女の場合、きっと伝えることこそが目的であり、
それを最も的確に行うために見つけた手段が、これだったのでしょうね。
ただ、一般的な絵描きの方々も、あくまで伝えることが目的なのでしょうか。
そのためなら、絵というカテゴリから飛び出すことも厭わないのでしょうか。
絵というのを自分にとって単なる表現の手段と考えるのでしょうか。
何か、違うように思える。
「絵という手段を使って表現する」ことを目的とする方が多いはずだ。
きっと、自ら好んで選んだ手段だからこそ、それも含めて目的となり得る。
絵というカテゴリに満足せず、最終的に独自の表現手段を見出した彼女は、
少し科学者に通ずるところがあると思います。
科学も、現状に満足しなかった天才達がより便利に、
自らが望むとおりに物事を運ぶために研究され、躍進したのですから。
そして、望みの手段を得た彼女は、
やはり一種の天才と言えるのかもしれませんね。
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・活字中毒者の疑惑
・主にラノベ・ジュブナイル系
・サブカルチャー全般が好き
・王道は避け気味
・古武術歴17年だが激弱
・猫は正義
メール:
greed0106★yahoo.co.jp